脇田です。今回の地震と原発事件についての個人的な意見です。
まず、地震と、原発事件とは、別々の事柄であることを確認しておきたいと思います。
地震は天災であり、人事の及ばない天災ですが、原子力発電所の爆発は人の造った人工物の破損であり、それは人災です。
事件から1週間たった今、テレビやインターネットなどのメディアが、地震で被災した人のグリーフ(悲嘆)を報道しています。大切な人を失って悲嘆にくれる「あの人」の姿は、涙を誘わずには居られません。
また、福島原発の放水作業が一段落してとりあえず「メルトダウン」の危機が去った今、同じくメディアが、福島から避難してきた人たちのグリーフや、放水作業に携わった消防隊員のグリーフを報道しています。高い放射能から逃れて故郷を捨てた「あの人」の涙にも、また大きな不安を抱いて放水作業を行った「あの人」の涙にも、人は涙することでしょう。
しかし、この2つのグリーフは、一方が天災であり一方が人災であることを考えれば、全く種類の違う「異質」のグリーフであることが分かります。天災は避け得ないですが、人災は論理的にみて避け得た災害です。
にもかかわらずメディアは、この両者のグリーフを「同質」のものとして報道しています。
僕はこの「同質化」に強い違和感を覚えます。
もしこの両者のグリーフが、僕のクラインエントだったら、つまり僕の目の前で現状を語って涙を流したとしたら、僕はどうするでしょう。
天災の被害者のグリーフには、僕も一緒に涙するでしょう。
しかし人災の被害者のグリーフには、僕は涙する前に怒りを覚えるでしょう。
僕にはこの両者のグリーフは、全く別の種類のものとしか思えません。
また一方、次のようにも考えてしまいます。
そもそもメディアによって報じられている「あの人」は、僕にとっての「クライエント」なのだろうか。
今僕が接している「この人」の「仕事をなくしてどうしてよい分からないんです」の一言と、震災で被災して「仕事がなくなってどうしたらよい分かららないんです」の一言と、どちらにどれほどの違いがあると言えるのだろうか。
避け得なかたた悲劇と避け得た悲劇。
メディアの報道する「あの人」の悲劇と、今ここにいる「この人」の悲劇。
その違いをしっかりと記憶しておく必要があるのではないか、僕はそう思います。 |