脇田です。東北関東大震災についての私的な雑感です。
最近、ようやくテレビでは通常の番組を放映するようになり、ドラマやお笑い番組も戻ってきているようですが、ちなみに私はテレビはほとんど見ないので正確には「戻ってきているらしいですが」と言うべきでしょうが、何気なくテレビをつけると時々、「応援メッセージ」の番組が放映されている「らしい」です。
で、ふと思ったのですが、応援は結構だしどんどんやるべきなのですが、見ていて思うのは、何かしらそれらのメッセージに「時期尚早」感を感じてしまいます。
それは先日も書き込んだ「グリーフ」にも関係するのですが、つまりフロイトの言う「ワークスルー」ですね、それがまだ「徹底操作」されきっていないのに「頑張って!」はまだ時期尚早のように思うのです。
悲劇はまだ始まってもいないような気がします。つまり「悲劇」として記述しうるほどまだ十分に事態は「悲劇化」していなくて、まだ「悲劇」として書き記されてもいないのが現状ではないかと思うわけです。
今はまだ、「レクイエム」を奏でるのが精いっぱいではないか。少なくとも欧米で今回のような出来事が起きたら、「再生」のプロセスに入る前に、「死者を弔う」儀式に十分な時間をかけるでしょう。少なくとも、キリスト教国ではそうするはずです。「再生」は、「死」を十分にワークスルーした後に、ゆっくりと、丹念に、グリーフをしっかりと内に抱えながら始まるものです。
なにか、その辺のことが、日本ではちょっと順番が違っているような、うん、しかもその違い方は心理的プロセスを多少逸脱した違い方のような気がしてなりません。
レクイエム。そう、私にはまだ、レクイエムを奏でるのが精いっぱいで、被災者を元気づけるとか応援するとか、援助物資を送るとか義捐金を送るとか、そういったことはできません。もちろん、そうできる人はそうすればよいでしょうし、私もまたそうできるようになった日にはそうするでしょう。
でもまだ、私には「レクイエム」が精いっぱいです。 |