らくらくカウンセリングオフィスは従業員のやる気(モチベーション)と職場環境の問題についてのコンサルティングを行っています。
東日本大震災について語ろうとするとき、2種類のアプローチがあります。一つは地震と大津波に関係する言説で、もう一つは原子力発電と東京電力の対応についての言説です。一番目のアプローチをとる場合、我々カウンセラーとしては、「がんばろう日本」という巷間にあふれる画一的なメッセージについての違和感を唱えることが可能でしょう。これについては、カウンセラーならばだれでも思い至ることであり、「ウツの方に<頑張って>の一言は禁句である」という事実は常識であり、いまさら私が語る必要もないほど自明の理です。「頑張らなくていいよ」。それが今までも、今現在も、そして未来においても、カウンセラーが語り得るすべてのメッセージです。
では2番目のアプローチについて、カウンセラーは何を語ることができるでしょう。実は、この問題はもっと大きく、複雑で、より高度な思考が必要な問題です。
「あなたは浜岡原発の停止に賛成ですか」という問いは、中部圏に住む私たちならば誰でも自らに問いかける問題であり、しかも面白いことに、その人のパーソナリティがいとも簡単に答えを用意してしまうような性質の問題です。「そりゃ反対だよ。エネルギーは我々に必要なものであり、しかも化石燃料を使わないクリーンなエネルギーが原発だからね。福島の問題にめげることなく、もっと安全な原発を目指して技術開発するべきだよ」という即答が即座に浮かぶ人と、「絶対賛成だよ。原発なんて絶対に作っちゃだめだよ。太陽光とか、風力とかの代替エネルギーの可能性を模索すべきだよ」という即答が即座に浮かんでくる人のどちらかしかいません。その中間の人はいません。なぜでしょう? なぜ、「白クマさんやペンギンさんやサンゴさんやオゾンさんには気の毒だけど、やっぱり石油を燃やすしかないよ」とか、「サケさんやアユさんや棚田さんには気の毒だけど、やっぱりダムを作るしかないよ」とかという答えをする人がいないのでしょう。私にはこの状況は、極めてイビツな状況に思えて仕方ありません。
ナチスが台頭した時、ユングはおそらく同じような問いを自らに発したでしょう。「あなたはナチスに賛成ですか、反対ですか」。多くのドイツ国民は「絶対賛成。今の経済状況を打ち破るには新たな秩序が必要だ(秩序元型)」と答えたでしょう、。そして多くのユダヤ系ドイツ人は(もちろんフロイトも含めて)、「絶対反対。」と答えたでしょう。そうした時代的緊張関係の中にあってユングは、ヴォータン元型と秩序元型を考えていったわけです。
中沢新一さんが雑誌「すばる」でいち早く原発事故の問題を取り上げ、「日本の大転換」を書いたのも、ユングと同じような問題意識を持ったからでしょう。中沢さんは問題を彼一流の「汎化」のふるいにかけ、惑星誕生の歴史から一神教の心的構造から資本主義経済のメカニズムまで含めた壮大な議論を「エネルゴロジー(エネルギーの存在学)」というキーワードで展開しています。アタマのいい中沢さんは、彼らしく、慎重にユングの元型論との間に一線を引いて議論を進めていますが、心情的には、ユングと同様に、現在の原発を巡るエネルギー問題にヴォータン・秩序元型の出現を見出だしているわけです。
さて、では問題は、2番目のアプローチの「エネルギー問題」をどう考えるかです。もちろんこの問いは石油資源の枯渇が言われたころから始まっている問いですが、その答えの一方の退路が絶たれてしまった(つまり「原発はクリーンで安全なエネルギーですよ神話」が崩れてしまった)今、再度新たな問題として提出されています。もう誰も、この問題を避けては通れなくなっています。
クライエントも、この問題の中に立たされてジレンマを訴えることになるでしょう。「節電のことで主人と意見が合わない」とか「子供を車で学校まで送っていくことについて姑といさかいが絶えない」とかといった話をクライエントがしたときに、どのようにこの話を傾聴できるのでしょう。じっと寄り添って傾聴するのでしょうか。クライエントは話をして、それだけで「問題解決への道」を見出だしてくれるのでしょうか。
エネルギー問題は「生命の維持」に関する問題です。もっと言うならば「進化」に関する問題です。村上春樹の問題意識は、常にここに根ざしています。同じように、カウンセラーはこの問題に意識を集中する局面に立たされるでしょう。節電の問題は、単なる「夫婦の心の問題」ではなくなっているのです。車を使ってガソリンを消費することの是非を巡る葛藤は、姑との間のお互いの投影をどう処理するかの問題をはるかに超えてしまっているのです。傾聴の限界。元型の出現。それが節電問題の根本に横たわっている心理学的な問題です。
ユングは精神元型(ガイスト)の出現に対するマリア元型の出現を対峙しました。テーゼに対するアンチテーゼの対峙。そしてそこからのジンテーゼを導き出すために「意識」が果たすべき役割の大きさを訴えました。同じことが、この現代の「エネルギー問題」にも言えるでしょう。私たちは、「浜岡を停止するか再開するか」という問いではなく、そのどちらでもあってどちらでもない答えを模索する必要があるのです。白クマさんも生きられ、アユさんも生きられ、福島の酪農家トウシさんも生きられる第三の道を探す必要があるのです。その議論を進められるかどうか、つまり「意識」を持って(TA的にいえば「アダルトな自我構造」を持って、あるいはもっと分かりやすく言えば徹底的に「理性」を働かせて)議論を進められるかどうか、それがこれからの時代のキーポイントになるでしょう。 |