らくらくカウンセリングオフィスは守秘義務を厳密に順守し、その情報管理体制を確立しています。
当社役員の脇田です。
私と妻には子供がいないので、「娘」という関係を実際には体験していませんが、ウチの女房と彼女の母親との関係、あるいは私の母親と私の妹の関係などを見ることによって、間接的に「母と娘の関係」というものに思いを巡らせることはできます。カウンセリングの現場では、女性のクライエントが母との関係や娘との関係を問題として話されることは多いのでしょうが、守秘義務の制限もあるので、なかなかこのようなオープンの場にそのような問題が持ち込まれることはありません。(また、開業カウンセラーでない私も、そのようなカウンセリングを受け持ったことはありません)
そのため、臨床的な事例研究や小説の中にそのような題材を求め、擬似的に「母と娘の関係」を体験すると同時に、女房や母や妹の話す事柄の中に、同じようなテーマを見出して、この問題を考えるようにしています。
女流作家の作品には、このような、母や娘との関係をテーマにしたものがよくあります。しかしその多くは、個人的な母親コンプレックスつまり「個人的無意識」に起因するものが多く、それが「元型」つまり「集合的無意識」にまで肉迫しているものは残念ながら私も巡り合ったことがありません。(というか、私の読書量もその程度に過ぎないということですが)。でも、最近読んだトニ・モリスンの「ビラウド」には、まさしくこの「母娘元型」が象徴的に取り扱われています。
モリスンは、女性のアフリカン・アメリカンでノーベル賞作家です。私はかつてオバマ大統領が大統領選を戦っているときに、モリスンが教会(だったと思う)で応援演説をしている様子をニュースにちらっと見たのを覚えています。黒人で初めて米国大統領となったオバマさんは、アフリカン・アメリカンの希望を文字通り一身に担っているわけで、今では多少支持率に陰りが出てきたとはいうものの、やはりアフリカン・アメリカンの期待はまだまだ大きいようで、民主党政権はしばらく続きそうだというのが、大方の予想のようです。
「ビラブド」は、モリスンの作品の中でも最高傑作と言われているもので、19世紀後半の南北戦争後のアメリカを舞台に、黒人が白人から受けた虐待の悲惨さが、克明に記されていきます。読むのが辛くなるような記述も多く、また、意図的に差別的な表現もされているため、強いリアリティを持って読者の倫理的な琴線を刺激します。もちろん、最後には、荒廃した魂の再生や救済もあり、最後まで読むと、ようやく作者の意図が見えてくるようになっています。
ここでは、この作品の登場人物のうち、3人の主要人物に着目してみましょう。セサという名の主人公、その実の娘のデンバー、そして謎の女性・ビラブドです。ビラブドは二重の役割を担っているため、セサの死んだ娘を「ビラブド1」と呼び、19歳の姿で現れるビラブドを「ビラブド2」と呼びましょう。実はこの小説は、ビラブド1の幽霊がビラブド2として描かれているところに、ストーリーを動かす駆動輪が置かれています。
さて、このビラブド2を、セサは自分の手にかけて殺した娘の生まれ代わりだと思い込み、またデンバーは住んでいる家にとりついていた自分の姉の霊が実体化したものだと信じます。2人のこの思い込みがストーリーを大きく動かしていくわけですが、重要なのは、この3人がいずれも「母娘元型」にとらわれているという点です。
「母娘元型」は、ユングが「デメテル・コレー神話」の分析として提出した概念で、いわゆる「グレイトマザー」のことです。グレイトマザー元型が母親と娘のそれぞれの無意識の中で力を持った時に起こる出来事がデメテル・コレー神話であり、それは多くの女性クライエントが抱くファンタジーの由来になっているというのが、ユングの考え方です。(詳しくはユングの「元型論」を読んでください)
さて、セサとデンバーは、ビラブド1の霊を媒介にして、各々のグレイトマザーをビラブド2に投影し、しかもその投影像に強く縛られています。一方、ビラブド2は、もちろんビラブド1の幽霊などではないのですが、自分に対するセサとデンバーの態度に刺激され、自分の中のグレイトマザーを活性化し、その投影像をセサに見出していきます。その結果、この3人はきわめて特殊な三角関係に陥ります。また、さらに悪いことに、彼女たちを守ってくれるはずの存在である「黒人コミュニティ」からも遊離していきます。3人は完全に現実世界への適応を奪われ、食事も満足にとれなくなってやせ細っていきます。
この状況を打開するのがデンバーです。彼女だけがいち早く元型の作りだすファンタジーから現実世界へと戻り、いわゆる「投影の引き戻し」を体験します。というのも、彼女だけが、空腹感を自覚し、食事をするためには働いて社会との接点を取り戻さないとだめだということを悟るからです。デンバーは10歳前後という設定なので、ファンタジーと現実との区別ができるようになるような発達段階にあったと考えれば、このような展開もうなずけるでしょう。
デンバーが救いを求めた先は、3人が遊離していたその「黒人コミュニティ」です。コミュニティはデンバーの求めに即座に応じ、救いの手を差し伸べます。そしてセサに対して、今まで彼女を支えてきたのはこの黒人コミュニティであったということを思い出させ、コミュニティの力と、そしておそらくは神の力で、ビラブド2をコミュニティから追い出し、セサとデンバーは元型の魔力から解放され、再び現実的な日常が戻ってくるというのが結末です。
ここで重要なのは、「黒人コミュニティ」の力です。3人が捉われていたグレイトマザー元型のマイナスのパワーに対して、それを打ち消す力を発揮するのがコミュニティ、つまり黒人同士の信頼と協力関係に裏打ちされた「社会」であるという点です。これがモリスンの言いたかった結論であり、また、その局面でこそユング心理学的な心理療法が図らずも功を奏していたわけです。(もちろん敬虔なキリスト教徒であるモリスンは神の力をそこに介在させているわけですが、そのような信仰心もまた、元型との関係の結び方のひとつの理想形であるわけです)
アメリカの文学界には、フォークナーやスタインベックのような凄い作家が何人もいて、モリスンも1993年のノーベル賞受賞でようやくその仲間に加わったと言えるでしょう。彼女のテーマは常に一貫していて、それは「アフリカン・アメリカンのアイデンティティとは何か」ということに尽きますが、そのテーマを「神話的」な手法でまとめあげたのがこの「ビラブド」です。全体が神話のように象徴的・夢想的に描かれ、また複数のストリーがパラレルに描かれているため、とても読みにくい難解な作品ではありますが、「神話には元型が宿っている」というユングの分析と照らし合わせながら読むと、この作品の奥深に秘められた豊かな元型世界が、霧の中に立ち現われる巨人像のように、読む者の心のにその姿を現すでしょう。
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