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当社役員の脇田です。
村上春樹の「1Q84」が、大江健三郎の「燃えあがる緑の木」を強く意識した作品であることは、よく知られています。大江さんがノーベル賞受賞と相前後して書かれたこの作品は、大江文学の総決算的な内容であり、発表当時、かなり話題になりました。
しかし、この作品のすぐあとにオウム真理教の一連の事件が起こり、この作品との類似性を巡って多くの議論を巻き起こしたこともまた事実です。そのため、大江さんは、いったんはこの作品で断筆宣言を行ったものの、事件の後、再度筆をとり、あの「宙返り」を書いたわけです。そのため、「燃えあがる」と「宙返り」は同じ一つのテーマを巡ってそれぞれ別の観点から描いた相互補完的な作品となっています。
この2つの作品が取り上げているテーマが、大江さんの言う「魂のこと」です。
実は私は、「燃えあがる」が文庫本で出た当時、3部作を買い求め、第1部を読み始めたものの、なんとなく退屈で、しかも当時私は宗教に対してあまり関心がなかったため、途中で投げ出し、段ボールの奥深くにしまいこんでいました。今年の4月頃に、増えすぎた蔵書を少し始末しようと、古い文庫本--そのほとんどはミステリーとか歴史小説でもう二度と読まないだろうものばかりでしたが、それらをまとめてブックオフに売りに出したのですが、実はその中にこの「燃えあがる」が入っていたのを全く気付かなかったのです。最近、ユングの「ヨブへの答え」などの宗教関係の著作に触れてから再び「魂のこと」に関心を持ち、読みかけだった「燃えあがる」を探したところがどこにもなく、あああのとき一緒に売ってしまったのかと思いだしてあわててブックオフへ行ったところ、なんと3冊とも売れずに残っていたのを無事に救い出して、今また読んでいるところです。
「燃えあがる」は通常、大江さん流の独特な宗教哲学を、四国の山奥の故郷を舞台に展開した半自伝的作品として読まれています。特定の宗教に依存せずに、なおかつ人が「宗教的体験」にどのように触れ合えるかを、「燃えあがる緑の木」という架空の教団を作って思考実験した作品として読むのが一般的です。この「宗教的体験」を、ユングは「ヌミノーゼ」と読んで、「ヨブへの答え」をはじめ、「元型論」でも「象徴論」でもその中心的テーマに据えて展開しているわけです。
そのようなユング理解をもとに再度「燃えあがる」を読み直してみると、ここにはさまざまな元型が構造的に配置されて、文字通り「象徴的」に描かれているのが分かります。例えばそれは、「私」という一人称の語り手である主人公で男性から女性へと性転換した経験を持つ「サッチャン」と、救い主と呼ばれることになる「ギー兄さん」との性交場面にも表れています。この場面を最初に読んだ時、私には、なぜこのような無理な設定を持ってくるのかがよく分かりませんでしたが、今考えると、これはまさに両性具有の問題であり、ユングの言う「個性化」の象徴であることがよく分かります。
また、そもそも「燃えあがる」には、ベースにW.B.イェーツの宗教詩が設定されていて、ヨーロッパのロマンティシズムの世界観の中では、このような両性具有つまり「反対物の一致」や「善と悪の融合」は、グノーシス主義の伝統の中で長く生き続けてきたテーマです。もちろん、「一本の木の片側が緑なす枝で、もう片側が勢いよく燃えあがっている枝」というこの「燃えあがる緑の木」というイメージ自体が、イェーツの考えだした「反対物の一致」の象徴であるわけです。
村上春樹は、サリン事件の後、あの大著の「アンダーグラウンド」を書きました。大江健三郎はその頃、「宙返り」を書いて、この「魂のこと」の問題を、宗教的問題からさらに反転させて「融合化」を試みようとしました。そのサリン事件から15年以上がたつ現在、ブックオフから救い出されてきたこの「燃えあがる緑の木」を読みながら、改めてポストフクシマ時代を生きる現代人の「魂のこと」を、私は考えずにはいられません。つまり、「時代にとっての個性化」ということを、ついつい考えてしまうのです。
「時代にとっての個性化」、そういうことが果たして可能なのかどうか。大江さんも村上さんも、おそらく今、そんなことを考えているのではないでしょうか。そんなことを考えることと、福島から避難して「一刻も早く故郷に帰りたい」と嘆いているおばあちゃんのことを考えることとは、同じくらい大切なことだと思います。なぜなら、そこには常に「魂のこと」が関わっているのですから。
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