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投影と共感

㈱らくらくカウンセリングオフィス 2012/05/06
らくらくカウンセリングオフィスは、クライエントへのアートセラピーを提供しています。
当社の「名ばかり役員」の脇田です。

私がまだ東京に住んでいた頃、世田谷美術館で開かれた「アウトサイダー・アート展」に衝撃を受けて以来、障害者のアートを集めた作品展を見に行くのを楽しみにしています。4年前には、近江八幡市の「ボーダーレス・アートミュージアム」で開かれた「アールブリュット展」を見に行きましたが、この展覧会で初めて日本人の障害者作品を目にし、その精度の高さに驚いたことを覚えています。

GWの連休中に、新聞の広告で、高浜市の「かわら美術館」で「アールブリュット・ジャポネ」展が開かれているのを知り、さっそく車でで知多半島道路を走り、高浜まで行ってきました。今回の作品展は、日本財団が日本人の障害者作品(アールブリュット)を集めてパリで開いた展覧会の「凱旋イベント」であったため、作品はすべて日本人のものでした。パリでの展覧会は大成功だったそうですが、確かにどの作品も目を瞠るような面白いものばかりで、十数年前に見た「アウトサイダー・アート展」にも匹敵する力作ぞろいでした。興味のある方はぜひ見に行ってもらいたいと思うのですが、印象に残ったものを何点かここにご紹介しましょう。

例えば、蒲生卓也さんの「プードル」という作品があります。これは新聞広告のメインビジュアルにも使われていた作品で、また展覧会場の入り口にも拡大したパネルが置いてあるくらいですから、誰が見てもびっくりする一点です。細い色鉛筆と水性マーカーだけで描かれているのですが、最初何気なく目をやった時にはこれが「プードル」を描いたものとは分かりませんでした。何か線がもやもやと絡まっているだけで、そこに“造形”を見出すのは困難です。しかし人間のゲシュタルト構成能力は、この線のもやもやの中からプードルの表象を構成します。つまり、よく見るとワンチャンの鼻や目や手足が見えてきます。

蒲生さんの作品は、すべて図鑑を見ながら描かれています。そのため、全体の形状は図鑑の絵をそのまま写したものであり、いったん見る側の認知システム内に形状のゲシュタルトが構成されれば、「ああこれはプードルだな、これはザリガニだな、花だな、・・・・だな」と分かります。しかし、どう考えても分からないのは、色鉛筆で描かれた細い線と、塗られている色の必然性です。この線は決して輪郭をなぞっているのではありませんし、また色も、図鑑の色のままではありません。形態と色彩の大規模な変換が、蒲生さんの認知システム内で行われ、それが表出されているのです。つまり、蒲生さんだけが見ることのできた「図鑑のプードル」が、蒲生さんなりのリアリズムで表現されているわけです。しかし、それを見た私たちがその絵に何らかの感動を覚えることができるのは、そのような認知システムに共感できる何かが私たちの中にもあるからに違いありません。

蒲生さんは知的障害者です。現在34歳で、日中は障害者施設に通いながら、週に1点くらいのペースで作品を作っているそうです。アールブリュットの人脈の中では結構知られた人のようで、テレビでも時々紹介をされているそうです。ここ数年の間に日本のアールブリュットが有名になり、それなりの社会的地位を獲得しているのでしょう。そもそも日本財団がパリで日本のアールブリュット展を開こうとした意図の背景には、障害者の社会的地位の向上ということに加えて、日本の障害者アートの流通的・経済的地位の確立といううこともあったのでしょう。実際、「かわら美術館」で上映されていたパリでの展覧会のドキュメンタリー映像には、フランスの画商が興味深そうに作品の“値踏み”をしている様子が映されていました。

アールブリュット作品を精神分析する試みも、以前からなされています。そもそも、アウトサイダーアートが歴史上に登場したのはフランスのシュールリアリズム運動が最初であり、ブルトンやダリがフロイトの精神分析に強く影響を受けていたのは有名です。私は世田谷美術館の「アウトサイダー・アート展」で見たイブ・タンギーの作品が、アールブリュットと同じ系列にあることを知って驚いたことをよく覚えていますが、そこに描かれていたのは、ビオンのいう「不気味な対象群」がミクロサイズに縮小された姿に他なりませんでした。それはまた、「アールブリュット・ジャポネ」展で見た、上田志保さんの「こゆびとさん」をも思い出させます。

「こゆびとさん」も不思議な作品です。タイトルの意味は、「恋人さん」なのか、あるいは「小指さん」なのか、「小人さん」なのか、よく分からないのですが、とにかく微小な人型が無数に描かれた作品です。とは言っても、それが何かの形状を表しているわけではありません。微小な形態と色の混ざり具合だけで構成された、いわば「抽象絵画」なのです。しかし全くアトランダムな抽象画でもありません。またカンディンスキーのような意図的に構成された抽象でもなく、あるいはまたポロックのような「無意識の抽象画」でもありません。ただ単にそこには、何か微妙なバランスで成立している形態と色彩とがあるだけで、蒲生さんのプードルのようなゲシュタルトの再構成も見出せません。しかしもちろん、そこには上田志保さんの無意識の世界の投影があるはずです。しかもその投影が上田さん自身の心理的防衛として成立していることが、見る側に同じような感動を、共感的に呼び覚ますのです。

アールブリュットとアートセラピーとを比較した研究もよくなされています。箱庭にしても、コラージュにしても、あるいは樹木画でも風景構成法でも、そこにはクライエントの「自己」がいろいろな形で表現されます。知的あるいは精神的な障害を抱える人たちにとっても、それは変わりません。私たちのような健常者でも、画用紙に一本の樹木を描く時、「ああ、これでできたなあ」という思いで完成を迎えるときがあります。別に名画でもなければ傑作でもない絵ですが、それでも「ああ、いいなあ」と思えるとき、そこに投影されている「自己」は、何らかの形で幼少期に内在化された理想自己でしょう。それと同じように、障害者のアールブリュットにも、そのような理想自己の出現を私たちは目にします。だからこそ、私たちは彼らの作品に感動を覚えるのです。

もちろん、アールブリュット作品の中には、ちょっと目を背けたくなるようなものもあります。特に、精神障害者が描いた作品には、セックスに関するものや色遣いの悪いものが多く、ちょっと違和感を覚えます。また、文字やメッセージが書き連ねられたものもあり、それを読んでしまうと「意味」が生じて、その途端に「絵」ではなく「文章」になってしまいます。この「意味」の発生が、場合によっては「絵」を別の何かに変質させます。例えば、性交場面を執拗に描く高橋重美さんの作品や、あるいは、おそらく統合失調症と思われる岩崎司さんの作品には、何やら近寄りがたいオーラが漂っているように感じます。

しかし、こうした作品にも彼らなりの「自己」が投影されていることを思うと、そこに別の意味合いが見えてくるような気がします。例えば、街で目にした写真やポスター、新聞や雑誌の文字を、それらの意味がわからぬままに集め、毎日ノートに貼ったり書いたりして作られた「コラージュ作品」があります。作者は吉澤健さんという40代半ばの知的障害者で、このノートの凝縮力がとても凄いものなのです。書かれている意味不明な文字も、また貼られているコラージュ絵画も凄いのですが、それだけでなく、作品をコラージュしたノートがいっぱいになると「これで終わり」と言ってノートをホチキスで留めてしまうという吉澤さんのこだわりに、何やら徹底した固着点の在り処を見出すことができるように思えます。

しかし、この吉澤さんのノートを1冊のノートとして客観的に見た場合、それは「アート」ではなく、ただのくずの寄せ集めにしか過ぎません。その「くず」に意味を見出しているのは、吉澤さんただ一人でしかないのです。書き連ねられた文字にも、貼られた写真にも、第三者には何の意味もありせん。しかし吉澤さんにとっては、これらのコラージュは大切な「意味」のある対象群なのです。であるからこそ、このノートを目にした私たちが心の深いところで何らかの感動と共感を覚えるとき、「くず」が1点の「アート」へと変貌するわけです。

だから、ムンクが習作のつもりでラフに描いた「叫び」を数十億円で手に入れるよりも、画帳から無造作に破り取られた1枚の「プードル」をこそ、私は自宅のキッチンには貼っておきたいと願うのです。
 

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