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マリユス・ポンメルシーの「自我」

㈱らくらくカウンセリングオフィス 2012/08/19
らくらくカウンセリングオフィスは、クライエントとともに自我の成長を考えていきます。


昨年のアカデミー賞映画の「英国王のスピーチ」を撮ったトム・フーパー監督が、ミュージカルの「レ・ミゼラブル」を映画化しているというニュースを聞きました。プロデューサーがキャメロン・マッキントッシュ。「キャッツ」や「オペラ座の怪人」などアンドリュー・ロイド=ウェッバーの一連のミュージカル作品を生み出したあの人物です。俳優陣は、歌って踊れる二枚目俳優のヒュー・ジャックマンの他、ジャベール役にはラッセル・クロウ、ファンチーヌにはアン・ハサウェイ。エポニーヌ役には25周年コンサートでこの役をやっていたサマンサ・バークスが出るほか、ミリエル司教役では、長年ミュージカルでヴァルジャンを演じたコルム・ウィルキンソンが出ます。日本ではクリスマス時期に公開ですが、おそらく来年のアカデミー賞の最有力候補となるでしょう。詳しくは、www.lesmiserables-movie.jpにアクセスしてみてください。

さて、私は1年ほど前からフランス近代の文学に興味を持ち、このところ、ユーゴーを初め、バルザックやゾラを読んでいます。「レ・ミゼラブル」は、ストーリー自体は有名なので誰でも知っていますが、原作を読んだ人は少ないのではないでしょうか。私も改めて原作を読んでみて、今までの理解がかなり偏っていたことに気付きました。それは一言で言うと、「ユーゴーは物語(ファンタジー)を書こうとしたのではなく、歴史(クロニクル)を書こうとしたのだ」ということです。

私たちの多くが理解している「レ・ミゼラブル」は、ジャン・ヴァルジャンの「銀の燭台」の美談だったり、少女コゼットのいじめ話だったり、荷馬車にひかれそうになったフォーシュルバン爺さんを身を呈して救ったヴァルジャンの自己犠牲だったりします。ミュージカル「レ・ミゼラブル」ももちろんそうで、このような名場面がクロード・シェーンベルクの名曲で描かれていくわけです。しかし原作を読んでみると、こういった物語部分の記述は全体の半分程度に過ぎないことが分かります。残りの半分には、フランス革命からナポレオン帝政を経て7月王政・6月暴動へと至る歴史の流れと、その歴史に翻弄されるパリ市民の実像、そしてそれらに対するユーゴーの思想が描かれているのです。

「レ・ミゼラブル」というタイトルは、「哀れな人々」「惨めな人々」という意味です。歴史の流れの中で悲惨な人生を歩んだ人々という意味です。なるほど確かに、ヴァルジャンもファンチーヌもコゼットも、ちょっとした歴史の歯車の食い違いによってどん底の生活を味わうという物語になっています。では、テナルディエ夫婦やジャベールはどうなのでしょうか。ミュージカルでも、あるいは私たちがよく見聞きしている物語でも、彼らは「悪人」であり、決して「惨めな人」ではありません。しかし原作をよく読むと、テナルディエでさえ、「時代が違っていたらその才能を生かして全く別の人生を歩むことができただろう」と書かれてています。ジャベールもそうです。彼は決して「法の番人」ではなく、法にしか生きる道を見出せなかった「哀れな人」として描く視線を、ユーゴーは忘れていません。

逆に、ヴァルジャンに燭台を与えるミリエル司教でさえ、ユーゴーの視点では、「聖人」などでは決してありません。王党派であった故にフランス革命によって出世街道からはずされた貴族の末裔であり、慈善事業だけに生きがいを見出す臆病で哀れなお坊さんに過ぎません。銀の燭台にしても、先祖代々の遺品だから単に持っていただけで、人にあげても、彼は惜しくもなんともなかったわけです。施しは彼の習慣であり、その習慣通りにヴァルジャンに施したところ、ヴァルジャンが勝手に驚いただけです。だからミリエル司教にもとを去ったヴァルジャンは、子供からまた小銭を巻き上げようとします。それがヴァルジャンの習性だからです。そして、子供が落としていった小銭を拾ったとき初めて、それが自分の習性であったことにようやく気づくことになるわけです。つまり心理学的に言えばここで初めてヴァルジャンの「自己洞察」が訪れるのです。

さて、ではマリユス・ポンメルシーは、そのような「哀れな人々」の一員でしょうか? この小説のもう一人の主人公であるマリユス。コゼットを愛し、6月暴動に身を投じ、最後にはコゼットと結ばれる青年・マリユスはどうなのでしょう。もちろん答えは「イエス」です。しかも二重の意味で、マリユスは「哀れな人」です。

よく知られているマリユス像は、「コゼットを救い、幸せをもたらす愛の英雄」でしょう。ミュージカルでもそのように描かれていますし、たいていマリユス役は若くて活気のある二枚目俳優が受け持ちます。しかし原作をよく読んでみると分かる通り、彼ほど「歴史の荒波」にもまれた人はいません。

「レ・ミゼラブル」に描かれている1830年前後のフランスは、極めてアンバランスな時代です。ロベスピエールやナポレオンがいた激動の時代が終わりをつげ、ブルジョワジーに担ぎ出された穏健派のルイ・フィリップが王位に就きます。その結果、世の中は一見静かな平和の時代を迎えています。しかしその背後には、共和制を取り戻そうとする若い革命家が日夜カフェで激論を戦わし、一方ではナポレオンのような天才的軍師の再来を求める人たちもいます。もちろん王党派を支持する保守主義者は最大勢力です。この3つの勢力の間にあって、マリユスはそれらを順に体験していくのです。

まず、マリユスを育てた祖父ジルノルマンがいます。この人は王党派で、ナポレオンが大嫌いです。マリユスは貴族の子としてジルノルマンの手で育てられますが、あまり「愛情を注いでもらった」という経験がありません。しかし祖父に育てられたマリユスは、王政を当然のものとして受け入れています。

さて、10代後半になったマリユスの元に、父の訃報が届き、単身で葬儀に訪れます。そこで初めて、自分の父がどういう人間だったか知ることになります。つまり、父はナポレオン派の軍人で、ワーテルローの戦いで敗れたもののテナルディエの助けで一命を取り留め、その後もひそかに我が子マリユスの成長を見守っていたということを知るのです。マリユスはこの話に感動し、父を深く敬愛し、同時にナポレオンを英雄視していくことになります。

しかし、パリに出て弁護士となったマリユスは、「ABCの友」という名の共和党派のグループと親交を結びます。それは、彼らの思想に傾倒したからではなく、単に大学時代の親友のクールフェラックに誘われたからにすぎません。しかし時代は「6月暴動」へと向かい、マリユスもABCの友と共に政府軍と闘うことになり、敗れて生死をさまようことになるのです。

さて、ここまでが原作に描かれているマリユスのミゼラブル(悲惨)です。しかしここで彼の成育歴をもう一度振り返り、彼自身の心の成長を「共感的」に読みとると、そこにもう一つのミゼラブル(悲劇)が隠されているのが分かります。

「レ・ミゼラブル」の第3部「マリユス」の章を読んだ人は誰もが感じることですが、彼はあまりにも簡単にコゼットへの愛に溺れてしまいます。話をしたこともなければデートをしたこともない、にもかかわらずベンチに腰掛けてルブラン氏(ヴァルジャンのあだ名)と語らうコゼットがふと見せた笑顔に欲動を刺激され、簡単に恋に落ちてしまうのです。そしてその後は、コゼットのものと思い込んだハンカチにフェティシズムを感じたり、2人の後をつけてストーカー行為を繰り返したりします。現代の私たちがこの記述を読むと、誰もが少なからず違和感を感じます。そして、「19世紀の話だからこんな極端なメロドラマになっているのだろう」と納得するのです。(このような納得の仕方そのものが、実は「レ・ミゼラブル」をファンタジーとしてしか読んでいない証拠ですが)

マリユスのこの極端な行動には、実は心理学的な理由があるのです。まず彼の母親は、5歳の時に死んでいます。しかも両親の結婚は、ジルノルマン氏からは真っ向から反対されていましたから、決して幸せなものではなかったでしょう。母親の死因は小説には詳しくは書かれていませんが、おそらく心理的な抑うつが何らかの形で影響していたでしょう。5歳くらいの、ちょうどエディプス葛藤が収斂して超自我と自我理想が形成される頃に、マリユスは父親と引きなされて祖父のもとで育てられることになります。この段階で彼には、「自己対象」の問題が発生していたことが考えられます。

マリユスのこの「自己対象問題」は、おそらく「理想的な父母イマーゴ」の欠損という形をとったのでしょう。つまり、彼は少年期から青年期にかけて、「理想的なるもの」「美しきもの」「善なるもの」を常に追い求めようとしたのです。だからこそ、ナポレオン軍に身を投じて英雄的働きをした父親像に自分の「理想的イマーゴ」を投影したのでしょう。ナポレオンの思想に共鳴したのではなく、自分が内的に作り出したイメージに父親の人生を重ね合わせる形で「ボナパルティズム」派に傾倒していたのです。

「ABCの友」との交流にも、「理想的イマーゴ」の投影が見られます。彼にとってクールフェラックやアンジョルラスらの革命家は、ただの友達でもなければ、思想的な「同志」でもありません。彼の理想像の投影先なのです。つまりここには、「共和制思想」に対する理解も共感も存在しません。逆に言うと、だからこそ6月暴動によるコゼットとの別れに際して、その投影像に依存する形で、革命闘争に身を投ずることができたわけです。

同じような「理想的イマーゴ」の投影が、コゼットへの「一目ぼれ」の際にも生じていたと考えられます。もっとも、この場合は「父親像」ではなく「母親像」の投影ではありますが。コゼットもまた、マリユスの母親と同じように抑うつ的なパーソナリティを持っていたでしょうから、そこに何らかの共感関係が生じたことは考えられます。2人は引き合うようにしてお互いへの恋愛感情を高めていくことになります。(この2人の恋愛関係の間にエポニーヌが入り込むわけで、この「三角関係」にも興味深いものがあります)

マリユスが身を投じた「6月暴動」は、簡単に鎮圧され、「ABCの友」は壊滅します。この時マリユスはヴァルジャンの陰の尽力で救い出されるのですが、この体験が彼の「自我」を成長させるのに大きく役立ちました。それが、テナルディエやヴァルジャンへの態度に現れます。特に、最初は父の命の恩人だと思っていたテナルディエに対して「ノー」を突き付けるとき、マリユスは一回り大きな人間に成長しています。つまりテナルディの不当な要求に対して理性的な論駁を加えることによって自我を働かせ、「エディプス葛藤」を解決していくわけです。また、自分自身の命の恩人だということを知らなかったヴァルジャンからコゼットを引き離す時もそうです。マリユスの「ミゼラブル」は、こうして彼の心の成長とともに進展し、小説全体の悲劇性を彩っていくのです。

さて、最後に「レ・ミゼラブル」のファンタジー性へと戻りましょう。この作品が感動的であるのは、そのファンタジー性が、私たち自身が持っている幻想(phantasy)の投影を引き受ける構造を持っているからです。小説を読んでもそのことはよく分かりますし、ミュージカル版や映画版を見ても同様です。本当にそうかどうかは、一度映画版の予告編を見てください。アン・ハサウェイが演じるファンチーヌが、コゼットを救うために自分の髪の毛を売ってしまし、それ嘆きながら歌う曲がバックに流れます。映画館であの曲が流れたら、私は30秒で泣くでしょう。ここまで読んでくれた皆さんも、おそらく...

 

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