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ジャベールの自我理想

㈱らくらくカウンセリングオフィス 2013/01/01
明けましておめでとうございます。本年もらくらくカウンセリングオフィスをよろしくお願い申し上げます。
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年末に、映画版の「レ・ミゼラブル」を観てきました。なかなか良かったです。音楽もストーリーも既によく知っているものなので、特に感動することもないだろうと思っていたのですが、その予想は見事に裏切られました。もちろん、「よい方向」に裏切られたわけで、カミさんと二人共、ティッシュが手放せない2時間を堪能しました。何といっても“映画”としてよくできています。つまり、トム・フーパー監督の演出の勝利です。ミュージカルであることを感じさせない自然なシーン設定、長回しとハンディを使い分けたカメラワーク、歌とセリフの絶妙なバランス、ところどころに効果的に使われるCG等々。映画でしか味わえない感動が、ここにはあります。

実は以前にこのブログで「レ・ミゼラブル」について書いた際に、書こうか否か迷ったテーマが一つありました。それは、ストーリーの後半に描かれるジャベール警部の自殺です。現代の私たちがユーゴーの原作を読んだ時、この自殺のくだりはとても不自然に思えます。「え、バルジャンに命を救われたからというだけで、何も死ななくていいじゃん」と思えてしまいます。なぜジャベールは死なねばならないのか--これはこの作品について考えるとき、ひいては19世紀というロマンティシズムの時代について考える際に大きなテーマとなります。

小説を読んだ方ならば分かる通り、この自殺のシーンは実に淡々とした語り口で書かれています。バルジャンに命を助けられた後、そのことをいぶかしく思いながらも、まだジャベールはバルジャンの行方を追い続けます。そして下水口の出口で彼を追い詰め、ようやく逮捕できるという場面になります。ここで、バルジャンの「深手を負ったマリウスを家にまで送り届けたいので、今だけ見逃してほしい」という哀願を受け入れ、逃がしてしまいます。その後、警察署に戻ったジャベールはある告発書をしたためます。これは、警察内部の不正を告発する文書で、これを書き終えた後、セーヌ川の橋の上から飛び降ります。ここまでのシーンに、ジャベールの独白や感情表現は一切描かれていません。つまり、「悩めるジャベール像」は一切描かれていないのです。あんなにバルジャンの苦悩を切々と描いてきたユーゴーが、ジャベールについては一切のコメントをしていないのです。

ただしここでユーゴーは、読者に自殺の理由を考えさせようとしている訳でもありません。饒舌なストーリーテラーのユーゴーですから、彼にとって書くべきことがここにあるのであれば、長々と書いたでしょう。つまり、「ストーリー上の役目が終わりもう書くことがなくなったから静かに役者を退出させた」と考えた方がよさそうです。

ではミュージカル/映画版ではどうでしょう。こちらは逆に、このシーンのためにしっかりとジャベールのソロが用意されています。「なぜバルジャンは自分を自由にしたのか。あいつは私を自由にしたことで逆に死に追い詰めたことを知っているのか」といったモノローグが切々と歌われた後、セーヌ川へと飛び込みます。映画ではここはCGで描かれ、小さな人間の姿と広い大河の流れとが対比的に描かれています。

このジャベール警部を巡る小説と映画との描き方の違いには、19世紀ロマンティシズムの時代の価値観と21世紀ポストモダン時代の価値観との違いが反映されているのです。かつて、18~19世紀には、「生きて敗者の辱めを受けるよりは死を選ぶ」という価値観が確かに存在しました。ユーゴーは単に、ジャベールにその価値観を負わせていたにすぎないのです。しかしこの価値観は、今ではかなり廃れたものになっています。そのため、今現在の私たちがジャベールの自死を読んだ時、違和感を感じてしまうのです。

ところで、この“ジャベール式価値観”は廃れて完全になくなってしまったわけではありません。産業カウンセラーとして活動をしていると、このような価値観を持った方とお会いすることが時々あります。「こんなことになってしまったのもひとえに私の不徳の致すところだ。こうなった以上、私が責任をとって辞表を提出せざるを得ないだろう」、云々。つまり、“ジャベール式価値観”は単に19世紀特有の時代精神というだけでなく、ある種の思考回路が導き出す「自動思考」であるとも言えます。

「自動思考」という考え方は認知行動療法が定式化したものですが、精神分析学ではこれを「自我理想」という概念でとらえます。「自我理想」とは、エディプス期を経て確立される「自我にとっての理想像」のことです。自我心理学派ではこの「自我理想」の形成を治療の目的とし、自我の成長を促すような解釈を行ないます。それによって抑圧されるべき心的事象は十分に抑圧され、適応的な防衛機制が確立されるわけです。

ジャベールの「自我理想」はどのようなものだったのでしょう。これは、ユーゴーも繰り返し書いている通り、「法がすべてに優先する」という考え方です。たった1個のパン泥棒でも法を犯したバルジャンは裁かれるべきであり、そのバルジャンをみすみす逃した自分も同罪であるという考え方です。国家が奉じる法に代わって自分が自分に法をもって裁く、それがジャベールの自殺です。

ではこのジャベールの死を私たちはどう捉えるべきなのでしょう。もっと具体的に言えば、「辞表を提出するしかない」というビジネスマンに対して、カウンセラーはどのように関わることができるのでしょう。このビジネスマンに対して、心の成長を促す余地はあるのでしょうか? たとえその言葉が悲壮な決意であっても、それが自我理想に貫かれている限り、本人にはそれが「本望」であるのかも知れないのです。カウンセラーとして人に関わることは、このような問いに答えることでもあります。

もちろん、その「答え」は、映画版「レ・ミゼラブル」の中にはありません。なぜなら映画は簡単にジャベールを殺してしまえるからです。でも、多くの心理療法家は「自我」に、つまり想像的なものに「答え」を見出そうとしします。確かにそれも一つの「答え」でしょう。「物語の中にこそ答えはある」。しかしそこに何かしっくりこないものを感じるのは、私だけでしょうか。

そうえいば、ラッセル・クロウ演じるジャベール警部が、あの「ジーザス・クライスト・スーパースター」のユダに似てとても“抑うつ的”なのは決して偶然ではありません。現代人の持つ抑うつ的な態勢を、この2人は図らずも反映しているのではないか、私にはそう思えてなりません。

 

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