らくらくカウンセリングオフィスでは、就職や転職についてのご相談も承っております。転勤・転職の多い今の時期に、仕事についての悩みや心配事のある方は、ぜひ一度、当社にご相談ください。
今日は、当社役員の脇田です。
私は、1970年代の後半に大学生だったのですが、その頃、私の通っていた大学では、実存主義哲学が盛んに講じられていました。川原栄峰という有名な教授がいて、この人はハイデガーの第一人者だったため、哲学の授業は毎回、ハイデッガーやサルトルの講義でした。氏はまた、ハイデッガーの「ニーチェ」の訳者でもあり、講義でも時々、ニーチェの永遠回帰の話を聞いたのを覚えています。
そのニーチェが、最近またブームになっているようです。ニーチェの著作は、時々、ブームが訪れるようで、そのたびに入門書や新訳本が出たりします。今回も、「超訳」と称されるニーチェのアフォリズム集が出版され、この分野の本としは異例な売れ行きのようです。ただし、この本の編集の仕方にはいろいろ問題もあり、批判の声が多いのも事実です。
ニーチェの著作は、初期のものを除いては、ほとんどが「アフォリズム」で成り立っています。つまり、短い箴言によって構成されています。一つ一つの箴言は、それだけ取り出して読んでも面白く、「超訳」本も、そのようなアフォリズムの寄せ集めです。それぞれのアフォリズムは、それだけ単体で読んでもそれなりの意味は通じます。
この本に収録されているアフォリズムの多くは、読む人を元気にするような内容のものです。そのようなものだけを抜粋して編集したのでしょう。そのため、この本を読む人は、ニーチェに「背中を押された」ような気分を味わい、明日からの生活や仕事に取り組むことができるようになるのでしょう。
しかし、このような「元気の薬」としてニーチェを読んむことは、即効性はあるでしょうが、持続性には欠けます。明日の仕事には邁進できるかもしれませんが、数日後にはまたトラブルや障害に突き当たり、「やっぱりダメだった」という思いを味わうことになります。なぜでしょう。実はその人は、ニーチェの表面をなぞっただけでその本質を読んでいないからです。
ニーチェの思想を始めてトータルに把握したのは、他ならぬハイデガーです。ハイデガーの「ニーチェ」という著作は、文庫にもなっていて手に入り安いのですが、かなり分厚く、しかもハイデガー用語に慣れていないと読むのにも一苦労します。
しかし私たちカウンセラーは、フロイトを土台にして、このニーチェの思想にアプローチすることが可能です。ハイデガーの「ニーチェ」をよく読むと、ニーチェが語ろうとしたことは、実は、私たちが既に当たり前のこととして了解してしまっていることへの遡及の必要性であるということが分かります。
例えばその遡及を、ニーチェは、宗教や政治的権力をターゲットに行なおうとします。いわゆる「ルサンチマン」というニーチェの考え方は、宗教や政治が私たちに既に了解させてしまっている諸前提を明らかにしようとする試みです。(だから、「宗教ってなんかうさん臭いよね」とか、「阿部政権のやっているTPPって本当に国益にかなうの?」とかと考えている人は、ニーチェに共感を覚えるわけですが)。つまり、宗教や政治が発生した起源まで遡及し、それがどのような歴史を経て文化の中に組み込まれ、さらには私たちの日常生活の隅々にまで浸透したかを明らかにすることによって、その化けの皮をはがそうとするわけです。
ニーチェは、このような遡及を、宗教や政治や文化をターゲットに行なったわけですが、同じような方法を使って個人の心の奥にある「当たり前の了解事項」へと遡及しようとしたのが、フロイトです。フロイトが、エディプスコンプレックスに原幻想を見出した時、彼は、私たちが当たり前のようにして父母との関係を自らの幻想の根源においていることを発見したわけです。
20世紀において、このような遡及が多くの思想家によってなされました。ハイデガーは、私たちの思考の根源へと遡及し、そに「存在とは何か」という問いを見出だしました。ミシェル・フーコーは、隠ぺいされてきた権力の歴史や性の歴史へと遡及し、その隠ぺい構造を見出しました。同じようにフロイトは、個人の心の奥深くへと遡及し、そこに「無意識」が存在することと、それが常に抑圧されて意識の表面へと浮上しないように蓋をされていることを見出したわけです。
このように、私たちが既に当然のこととして了解してしまっていることの奥深くへと遡及することは、実はカウンセリングの現場ではいつも起こっていることです。ハイデガーならば、そのような営みを「実存的了解」と呼ぶでしょう。川原先生は、哲学の授業の中で、サルトルの「嘔吐」において主人公がマロニエの根株の実在感に嘔吐感を感じた時、彼はまさにそのような実存的了解に至ったのだと教えていました。これをフロイト的に言うならば、「ワークスルーによる洞察が起こった」と言うのでしょう。そのような時の訪れが、カウンセリングにおいても生じているのです。
遡及をすること。それは常に痛みや悲しみが付きまとう営みです。しかし私たちに未来というものがあるとすれば、そのような遡及されるべき記憶の中にしかないのです。
|