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本当に「明けない夜が来ることはない」のか?

㈱らくらくカウンセリングオフィス 2013/09/14
カウンセリングを受けることは、決して恥ずかしいこともやましいことでもありません。誰でもが気軽にカウンセリングを受けることができるような社会常識の構築を、私たちは目指します。

こんにちは。らくらくカウンセリングオフィスの脇田です。

槇原敬之の曲に、「明けない夜が来ることはない」という歌があります。アルバムの中に入っている曲ですが、それほどヒットしたわけではないので知らない方も多いでしょう。
歌詞の大意は、こんな感じです...
対人関係(おそらく彼女との関係)で取り返しのつかない過ちを犯し、自己嫌悪に陥っている「僕」が、そのことを深く反省し、「今からでも遅くない」と思い、謝罪することを決意します。そして、
「この暗闇を切り裂くように 光の筋が走って この心で生きていく世界に 明けない夜が来ることはない」
と歌うわけです。どんなにつらく苦しい時でも、「新しい夜明けは来る」と信じることで、人は新しい人生を歩み始めることができるという意味です。確かに槇原敬之らしい曲です。

中島みゆきの新譜「常夜灯」にも「月はそこにいる」という曲があって、次のような歌詞があります。
「日々の始末に汲々として また一日を閉じかけて ふと立ちすくむ 燦然と月は輝く 私ごときで月は変わらない どこにいようと 月は燦然とそこにいる」
これもまた、確かに中島みゆきらしい曲です。

これらの曲はいずれも、自分の内的世界の小ささと、外的世界の普遍性とを対比した内容で、「自分のちっぽけさに比べ、世界は何と大きいのだろう。それに比べると、自分はなんて小さなことで思い悩んでいたのだろう」と思い知るというストーリーになっています。槇原敬之も中島みゆきも、このような曲作りを得意としています。

でも、このストーリーには、実は大きな落とし穴があります。「明けない夜が来ることはない」とか、「月は燦然とそこに輝いている」と歌われていますが、では本当に、「明けない夜」が来ることは絶対にないのでしょうか。月は今はそこで輝いているかもしれないけど、数分後には、月が何者かによって破壊されてなくなってしまうということはないのでしょうか? 「そんなことは起きるはずがない」と、皆さんは思いますか? でも、分裂病の人や、重いうつ病で苦しんでいる人は、そうは思いません。「私には、この暗く憂鬱な夜は、二度と明けることはない」、「月は私が見ていないときには絶対に輝いてはいない」と、分裂病者は考えるのです。

同じような思いを、ヒュームという18世紀の哲学者は考えました。「世界は本当に存在するのだろうか。私が今経験できている以外の世界は、実は存在していないのではないか。少なくとも、私の知覚に与えられていない世界は、本当に存在しているとは言えないのではないか」。このような考え方を、哲学の世界では、「懐疑論」と言います。

懐疑論の歴史は、すなわち哲学の歴史でもあります。全てを疑ってかかること、2000年以上前のギリシアの哲学者が抱いた根源的な懐疑、ここから哲学の歴史は始まっています。
しかし、この懐疑の歴史に一つの区切りをつけた人物がいます。それが17世紀のデカルトです。「われ思う。ゆえにわれ存在する」という有名な一言は、次のようなことを意味しています。つまり、「どんなに懐疑を徹底させても、その懐疑を抱いているこの私の存在だけは疑うことができない。なぜならそれを疑ってしまうと、疑っていること自体が否定されてしまい、疑いが疑いとして成立しなくなるからだ」ということを意味しているのです。

このような事柄を、哲学では「明証性と可疑性の問題」として捉えます。疑わしい事柄と、絶対に疑うことのできない事柄をはっきりと区分けし、疑うことのできない事柄を一つずつ積み重ねて物事を考えようとするのが哲学の考え方です。この考え方でいくと、実は世界の出来事のほとんどは「可疑性」つまり疑わしい事柄の部類に入ってしまいます。「明けない夜が来ることはない」という言明も十分に疑わしいものですし、月が天空に存在していることも徹底的に疑わしい事柄です。いや、実は、科学的事実そのものも、疑い出したらきりがないほど、疑わしい事柄に属します。

科学は十分に疑わしい--このことは、哲学者にとっては自明の理です。だから、哲学者は科学を信じません。もちろん、科学の一分野である心理学も、精神分析学も、哲学者は信じません。すべてを疑ってかかること、分裂病者と同じ次元で物事を考えること--それがすなわち、「物事を考える」ということの第一歩なのです。

疑うこと、それは人間に与えられた特権です。カウンセリングとは、クライエントの抱く「疑い」を、十分に理解して聞くことです。「ああ、そうそう。月がそこに存在することは十分に疑わしいとあなたが思うことは、決して異常なことではありません。明けない夜が来ることも十分にあり得る--確かにそうでしょう。だからこそ、私たち人間は、「疑う存在」として、いまここに存在しているのです」。このような根源的な可疑性にこそ、カウンセリングという営みの成立する基盤があると、私は思います。

 

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