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「ハンナ・アーレント」という映画が先日封切られ、新聞の映画時評などで絶賛されています。「ぜひ見たい」というカミさんに勧められるまま、今池の「シネマテイク」まで観に行ってきました。狭くて空気の悪いあの映画館は行くのは気が進まなかったのですが、話題の映画でもあり、アーレントがどのように描かれているのかにも興味があったので足を運んでみました。
映画の内容については、映画時評やホームページの解説に譲り、ここでは省略させていただきます。最終場面15分間のアーレントの講義は、確かに圧倒的な迫力があり、「凡庸の悪」について力説するシーンは説得力があります。なぜSSのアイヒマンが裁かれるにいたったのか、アイヒマンやユダヤ人指導者についてアーレントが何を考え何を訴えようとしたのか、そのへんのことは私が書くよりも、映画評論家の解説を読めば十分でしょう。また、この映画のテーマである「凡庸の悪」についても、映画解説にイヤというほどシツコク書かれていますから、ここであえて説明はしません。私がこの映画で着目したのは、もっと別の点です。
アーレントは、知っている人には有名な話ですが、実は、哲学者ハイデガーの愛人でした。というよりも、学生としてハイデガーの授業を受け、ついでにその愛人となってしまったという方が正しいでしょう。いずれにしても、ハイデガーと抜き差しならぬ関係にあったことは、この映画を見ればよく分かります。
一方でアーレントは、ユダヤ人でした。映画でも、ユダヤ人のハンナが、アメリカのユダヤ人社会の中で生き、ナチス党員のアイヒマンを裁くイスラエルの裁判を取材するというストーリーが中心になっています。その取材内容が、あまりにも在米ユダヤ人の意表を突いたものだったため、大きな社会問題になったというのが、ストーリーの中心です。その、ユダヤ人=アーレントと、ナチに加担したハイデガーとの関係が、この映画のもう一つの隠れたストーリーとして描かれています。
ところが、ストーリーの中心である「ハンナ対ユダヤ人社会」との描き方に対して、「ハンナ対ハイデガー」の描き方は、とても中途半端で、ある種の“後味の悪さ”を感じさせるものです。その味気なさが、果たして監督の意図したものなのか、それとも掘り下げ方の浅さからくるものなのか、それはよく分かりません。しかし少なくとも、曖昧にボカされたこの「ハンナ対ハイデガー」構図の方に、この映画の意義と限界が見出されるように思います。
1980年代に「ハイデガーとナチズム」という1冊の本が、出版されました。この本は、ハイデガーとナチズムの関係を詳細に追った歴史研究書です。実はハイデガーがナチに加担をしていたことはすでに研究者の間では「暗黙の了解」だったのですが、この本がそのことを歴史学的・文献学的に証明をしたため、それが「公然の事実」となったのです。映画「ハンナ・アーレント」は、1960年代という時代設定ですが、ハンナの同僚の哲学者(その多くはかつてドイツでハイデガーの弟子であったユダヤ人)たちの集まりでハイデガーのことが話題になり、一人の同僚が、「ハイデガーはナチに加担したんだ」と囁くシーンがあります。このようなシーンが描かれたのも、ハイデガーとナチとの関係が明らかになった21世紀の今という時代だからできたのでしょう。
この「ハイデガー=ナチ」という関係と、「アイヒマン=ナチ」という関係、そしてその両者をつなぐアーレントの立ち位置の微妙さが、この映画のドラマの核を構成しています。監督はもちろん、ハンナの視点からこの映画を作っていて、もちろん思想的にも彼女の思想に共鳴しています。(監督はかつて「ローザ・ルクセンブルグ」という女性革命家の映画を作った女流監督マルガレーテ・フォン・トロッタです)。そのアーレントの“立ち位置”は、実は「ユダヤ人寄り」でも「ナチ寄り」でもありません。彼女はあくまでも哲学者として中立的で大局的な視点からアイヒマン裁判を見守り、そこから「凡庸の悪」という人間の本質をつかみ取り、そこに問題の根本を見出そうとします。そしてそのことが在米ユダヤ人の反感を買い、「なぜアイヒマンを全面攻撃しないのだ? なぜ我々ユダヤ人に矛先を向けるような発言をするのか」と批判を受けることになるのです。
さて、ここでもう一度、この映画のハイデガーの描き方に目を向けてみましょう。映画の中でハイデガーが登場するシーンは4回あります。いずれも、ハンナの回想シーンの中です。いま直面しているアイヒマン裁判について考えながら、ハンナは煙草を1本吸い、恩師・ハイデガーのことを回想します。そこに登場するハイデガーは、決して「偉大な哲学者」ではありません。チョビ髭をはやし、大きな目でハンナを見つめながら、好色そうな笑みを浮かべるオヤジ学者。それがフォン・トロッタの描くハイデガー像です。
しかしアーレントにとってのハイデガーはどうでしょうか。彼女は映画の中でも、一度もハイデガーを批判しません。もちろんナチに加担したことを彼女はよく知っていますから、擁護や弁明もしません。では、ハンナにとってハイデガーとは何者なのでしょう。実は、この点が、この映画では曖昧なままです。先ほどのフォン・トロッタの「ハイデガー像」からすれば、ハンナにとってのハイデガーは「乗り越えられたかつての虚像」であってしかるべきなのですが、決してハンナはそうは言いません。ではハンナはまだハイデガーを愛しているのでしょうか? 実際、映画の中でハンナの親友の女流作家(彼女は生粋のアメリカ人です)が同じ問いをハンナに向けますが、それにもハンナは答えません。批判もしない、擁護もしない、ましてや愛してもいない、そんなつかみどころのない人物像がハンナにとってのハイデガーです。
このようにハイデガーとハンナ・アーレントとの関係は曖昧なままではありますが、しかしよく考えると、一つだけ明らかなことがあります。それは、ハンナの思想、つまりアイヒマン裁判に「凡庸の悪」を見出したハンナの視点、それはまさに「哲学者」と名のつく者がとるべき視点そのものであったということです。フォン・トロッタ監督が意図したかどうかは分かりませんが、アーレントが恩師から学んだものは、ナチの思想でもなければハイデガーの「哲学(実存主義的存在学)」でもなく、ましてやハイデガーの処世術でもなく、「哲学者」としてのあるべき姿だったということ、そのことをこの映画は語っているのです。
この映画の意義は、「哲学する」ということの大切さ、つまり「徹底的に思索する」ということの大切さを教えてくれるという点です。初めてハイデガーの研究室を訪れて“弟子入り”を願い出るハンナは、開口一番こう言います--「思索するということを教えてください」と。ハイデガーの思想が何を扱い、何をどう探求したかは別にしても、「徹底的に思索する」ということの大切さだけは、ハイデガーからハンナ・アーレントへと受け渡されていたのです。そのことを、この映画は教えています。
もっとも、アイヒマン裁判に「凡庸の悪」を見出すという思索は、ある意味で「ハイデガー的」でもあります。ハイデガーがドイツ人でなく、ユダヤ人だとしたら、おそらくそう考えたであろうような「思索」を、知らず知らずのうちにハンナは「思索」しています。それは、ハンナのハイデガー回想の3つ目のシーンに現れます。そこでハンナは、ハイデガーに向かって「理性で思索するのではなく、情熱で思索するということもあるのですね」と興奮した口調で語ります。「情熱での思索」、それはニーチェを称揚するハイデガーに特徴的な思考の傾向です。そしてまさにハンナは、ハイデガーと同じように情熱的な思考でアイヒマン裁判の全体像を「思索」し、そこから得られた思想を「ニューヨーカー」に発表したのです。
こう考えていくと、ハンナ・アーレントの思索が、ハイデガーを乗り越えているように見えながら、実はまだその影響下にあるということがよく分かります。そしてこの点が、この映画の限界でもあります。ハイデガーがナチズムに協力した「A級戦犯」であることを知っている我々としては、もう一歩踏み込んだ「思索」をこそ、この映画の中でも「思索」して欲しかったと望まずにはいられません。
とはいえ、映画としてはとても面白い作品です。思想的な内容ですが、映画としてよくできているので飽きたり眠くなることは全くありませんでした。今池の飲み屋街の真ん中にある、あの、狭くて暗くて汚くて臭い映画館へ行くのが苦にならない方ならば、ぜひ観に行ってください。「秘密保護法」が強行採決された今だからこそ、観るべき映画です。そう、観るなら「今でしょう」の映画であることは間違いありません!
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