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こんにちは。当社営業マンの脇田です。
昨年末に出たエミネムの新譜、「Marshal Mathers LP 2」は久々の傑作です。音楽誌でも絶賛していますので聴いた方も多いと思いますが、ヒップホップムーブメントを常にけん引し続けてきたエミネムの現在が、このアルバムには詰まっています。
エミネムのラップには、2つの大きな特徴があります。一つはまず、その詩の内容の特異性です。これは多くの評論家が言っていることなのでここでは繰り返しませんが、特異な環境で育ったその生い立ち、母への憎しみと愛情、不在の父親への憧憬、自分の精神疾患への思いなどをライムに綴っていくその気概は、他のラッパーに真似のできることではありません。アメリカの作家には、自分のハチャメチャな人生を書き連ねるタイプが多く、ヘンリー・ミラーのような破滅型が米国文学の潮流を作ってきていますから、エミネムにもそのような文化が流れているのでしょう。そう言えば、ボブ・ディランもまた、デビュー当時は今のエミネムと同じような作風を備えていました。もちろん年老いた今でも、ディランは最高ですが。
もう一つ、音楽的に見た時、エミネムのラップには、他のラッパーとは大きな違いがあります。それは音楽というものの本質に関わるような違いで、誰のラップよりもエミネムのそれがカッコよく聞こえる源泉となっている特徴です。
私たちは、ある対象を認識するときに、「志向性」と呼ばれる認識の方向性を持ってその対象と接します。このことをハイデガーは、「気遣い」という言葉で表現します。ドイツ語の「ゾルゲ」という単語を、日本語では「気遣い」と訳していますが、しかしその意味は、いわゆる「あの人は気遣いの細やかな人だ」と言う時の「気遣い」とは全く違います。「ゾルゲ」は、「気持ちをそちらの方向へ何となく向ける」というくらいの簡単な意味で、日本語でいうと「関心を持つ」くらいの方が近いでしょう。ただし、「関心を持つ」という言葉に含まれている「意図的にその対象に気持ちを向ける」と言うのとも違い、ただ単にその対象を「見やる」くらいの意味です。
音楽に対しても、私たちは「ゾルゲ」を向けます。この場合も、「じっと注意して聞く」のではなく、「ふと耳がその音楽の方を向く」くらいの意味です。音楽を聴く時、私たちは、コンサートホールで演奏者の演奏にじっと耳をすますようにしてじっと聴くのではなく、テレビやオーディオから流れてくる音楽に、「おや」と思って耳を傾けます。そのようにして聴く時、私たちは「気遣い」を持って、つまり「志向性」を持って音楽を聴いています。
「気遣い」つまり「志向性」は、「矢印(→)」のようなものです。音楽を聴く時、その矢印の根元は私たち自身から発し、矢の先端は「音楽」の方へと向かっています。根元は常に自分自身、つまり「自我(エゴ)」から発しています。(この場合の「エゴ」は、哲学用語の「エゴ」です。心理学や精神分析で言うところの「エゴ」とは違います)。しかし矢印の先がどこを指すかは、人によってさまざまに異なります。また、同じ人のエゴから発しても、聴く時と場合によっても異なります。例えば、一連のメロディーの方に関心を向けることもあるでしょうし、リズムに向けることもあるでしょう。ハーモニーに向けるかもしれません。あるいは歌詞に向けるかもしれませんし、和音やフレーズに向けることもあります。
このような「→」の複合が、音楽を聴くという体験全体を形づくっています。そのため、一つの音楽に対して、一人のエゴから発する「→」の本数が多いほど、その人はその音楽に多くの関心を払っていることになります。
一方、志向性によって放たれた矢印は、そのたどり着いた先で、何らかの「意味」を構成しようとします。関心を寄せた対象が自分にとってどのような意味を持つのかを、そこで見出すわけです。音楽の場合、「→」が例えば歌詞に向けば、その詩が意味している内容を解釈することになり、感動して泣いたり笑ったりするでしょう。リズムに向けば、体がそこにステップを見いだして踊りだしたり、手を叩いたりするでしょう。メロディーに意味を見出せば、いっしょに歌うでしょうし、「ああいいメロディラインだなあ」と記憶に留めたりするでしょう。
さらにもう一つ、音楽の場合、他の対象と違う特性があります。それは「音楽には時間的志向性も向かう」という点です。音楽は常に、ある瞬間瞬間において鳴り響いているだけですが、それが私たちのこころの中で構成され「メロディ」や「リズム」として記憶に留められるときには、時間をまたいで(あるいは「時間の持続の中で」)音楽的対象を把握しています。つまり、鳴っている音楽に対してある程度の時間的な長さをもった「→」を放って聴いているわけです。
しかもその持続性は、過去から始まり、現在を過ぎ、未来へと向かっています。ワルツが4分の3拍子で流れていれば、1拍目(ズン)が聞こえれば次の瞬間には2拍目(チャ)と3拍目(チャ)が聞こえ、その次にもとの拍子(ズン)に戻ることを期待します。このように未来を予測することを「予持」と言いますが、過去から続いて来た音楽をもとに、常に未来を予測しながら私たちは音楽を聴きます。そしてその未来が予測通りに実現した時、瞬間的に短い「充実」を味わうことができています。
このように、音楽に私たちが何気ない「ゾルゲ」を寄せるとき、実はそこに何本もの「→」が放たれているのです。そして音楽が鳴っている時間の流れの中で、その人独自の精神的充実感を得ながら音楽を「構成」し、それを享受しているのです。
さて、話をエミネムに戻しましょう。エミネムの音楽がカッコイイのは、聴き手に対してこの「→」を何本も放たせようとすることに起因しています。歌詞の特異性、リズムの突然の中断と再開、ライムの予定調和と変容、突然どなり出す歌、レゾナンスをあげていくメロディー...これらに聴き手は無意識のうちに耳をすまし、何本もの「→」を放たなければならなくなります。しかもその緊張性は「充実」にもつながるため、やめることもできません。すべては聴き手の何気ない「気遣い」のうちで行われ、無意識のうちに続いていくのです。その結果、エミネムが紡ぎ出す7分にも及ぶラップとスクラッチに、自然に耳を奪われることになります。
エミネム以外のラッパーの音楽を聴くときには、私たちが発生させる「→」の本数はそれほど多くありません。ラップは韻を踏んでいるため、強い関心を持って聞かなくても、自然に体がリズムを刻み、メロディが耳に残ります。むしろラップは、そのような緊張感を欠いた安心感に支えられた音楽であり、だからこそ世界中に流行ったのだとも言えます。今や日本語や中国語でさえ、ラップは歌われているくらいですから。
(とは言え、20世紀後半のシカゴやデトロイトでラップが生まれてきた歴史を知っている人にとっては、今流行っているラップは「骨抜き」になった流行歌に過ぎないと感じられていることでしょう。彼らにとっては、エミネムだけが本来のラップを今に伝えている生き残りなのです)
そう。もしかしたら、このような音楽作りができるのは、彼の精神疾患に原因があるのかもしれません。おそらくエミネムには、私たちとはちょっと違う時間の流れと「→」の方向性が、属しているのでしょう。しかし彼の中に流れている時間と私たちのそれとの差異は、決して大きなものではありません。ただ単に、その「→」そのものを見るという瞬間を、つまり既存の「→」に対してもう一本別の新しい「→」を向けるという機会を、私たちは忘れているだけです。そしてエミネムにはその機会が私たちよりも豊富に与えられているだけなのです。
「Marshal Mathers LP 2」は、今年のベストセラーに間違いなくなるでしょう。そのことが現代という時代の何をどう指し示しているのかは私には分かりませんが、でも少なくともこういう音楽を支持している人が世界に何百万人もいるということは、私にはとても面白い現象だと思えます。世界にとっても、また2014年のこの日本にとっても。 |