らくらくカウンセリングオフィスは産業カウンセリングの集団です。従業員についてのご相談をお聞きし、その解決方法をいっしょに考えていくのが、私たちの仕事です。
私が本業で所属している会社では、よく従業員から会社への不平不満を聞くことがあります。先日の「冷凍食品マラチオン混入事件」ではありませんが、「こんなに働いているのになんであの人より私の方が給料安いの?」とか、「60過ぎたら毎年給料が下がっていくのは納得できんわ」といった不満は、どこの企業でも聞かれる話でしょう。
実際、「産業カウンセラー」とは名ばかりで、実際に私たちが職場で遭遇する相談事とは、このような不平不満ばかりです。そこでは、「傾聴」とか「自己成長」とかのカウンセリング的な契機が入り込む余地もなく、一方的に不満がさらけ出されるだけです。もちろん、なかにはもともと性格的に依存的・抑うつ的な方もいて、話を聴いてもらうだけで現実検討のなされる方もいらっしゃいますが、人数的には少数です。多くの方は、自分の置かれている状況への不平不満を語るのに終始するだけです。
しかしその語りをよく聞いていると、そこにも一つの「理(ことわり)」があることが分かります。給与や待遇への不平不満の根底には、「公平さ」への不満と、そこに対して「正義」がなされないことへの不満があるのです。
「公平」と「正義」。このことは、実は職場の片隅で行われているヒソヒソ話的な出来事ではなく、政治哲学の表舞台でなされている王道の議論です。もっとも、日本の政治家の主張をテレビや新聞を通して聞いている限りそのような議論がなされているとは誰しも思えないでしょうが、実は「給料を公平に配分するべきだ」という不平と、「猪瀬知事は5000万円の使途を明確にすべきだ」という主張とは、「公平と正義」という観点においては寸分の違いもありません。
「正義論」という本があります。ジョン・ロールズが70年代に発表したこの本は、現代のリベラリズムの根本精神を書いたもので、リベラリストの教科書となっています。この本はまさにこの「公平と正義」についてその原理から説き起こしたもので、まさに“現代の政治哲学の古典”となっています。(ちなみにロールズはケネディ大統領と深い親交がありました。その娘が日本大使になり、捕鯨問題で阿部首相とぎくしゃくしているという状況には、日本の政治とアメリカのリベラリズムとの間にある微妙にして大きな差異が反映しています)
ロールズの主張は、簡単に言えば「社会契約論の徹底」です。ロック、ルソー、カントと受け継がれてきた社会契約論からそのエッセンスを抜き出し、現代の福祉国家の在り方に合わせて理論づけたのがロールズの正義論です。それは、「社会契約の尊重」と、その限りでの人間の自由を訴えたもので、アメリカや日本をはじめほとんどの資本主義国家で採用されている考え方です。ということはつまり、その考え方は今現在の日本で生きている私たちが「社会的常識」と呼んでいる考え方に他ならず、ある意味では“当たり前”のことになっている考え方を理論として構成しているだけです。
しかし、この“当たり前”のことを理論づけるということに、実は大きな意義があります。給与の不満を訴える社員に対して、上司は普通、「しょうがないよ。会社の業績が悪いからね。それにあなたとの雇用契約書には、時給820円と書いてあるからねえ。それ以上は上げられないよ」と答えるでしょう。この答えに対し、従業員は返す言葉を持ち得ません。なぜなら、それが「契約」であり、そこですべての問いは閉ざされてしまうからです。契約社会はこのような限界の構造を持っています。
ではカウンセラーはこのような社会契約上の限界構造に対し、どのような考え方でクライエントに臨むことができるのでしょうか。その限界を「現実検討」の地平としてクライエントが認識するのを、傾聴の時間の中でじっと待つのでしょうか。でもクライエントは何も答えてくれないカウンセラーに対して怒りをぶつけるかもしれません。彼はたった一度の面接で席を立ち、二度とカウンセリングルームを訪れることはないでしょう。跡には、カウンセラーの心の中に“後味の悪さ”が残されるだけです。
私は、少なくともこのような“後味の悪さ”を抱き続けるのは嫌なので、この限界構造についての理論的な視点を常に探しています。例えば、ロールズの正義論を勉強するのも、社会契約と人間の自由との関係を理解するためです。給与が安いことが契約上の制限であり、それがひいては彼の自由を保証していることを理解すれば、“後味の悪さ”のストレスを和らげることができます。
一方で私は、この限界構造を破る新しい理論が生まれることに常に期待をしています。ロールズの正義論に対して、それを乗り越えようとする新しい政治哲学として近年注目されているのが、「共同体主義(コミュニタリアニズム)」という考え方です。その理論を代表する急先鋒が、あのマイケル・サンデル教授です。
数年前に「白熱教室」というNHKの番組が話題になりました。あの時の教授がサンデルです。番組はどちらかというとサンデル教授と学生とのやり取りの面白さをクローズアップしていたようですが、実は重要なのはサンデルの政治哲学の方です。サンデル教授は学生に対して、現代のアメリカが抱えているさまざまな社会問題についての問いを投げかけていきます。格差社会問題、テロと戦争、銃社会などの問題は、実はすべて、すでにアメリカのリベラリズムが一定の結論を出している問題です。それは先ほどの議論と同様、社会契約に基づく「公平と正義」のバランスの問題です。しかしサンデル教授は現状のリベラリズムの解決方法に疑問を投げかけます。それが学生を悩ませるわけです。なぜなら、それは学生が抱いている“当たり前”の答えに対して、「ノー」を突きつけるからです。
「共同体主義(コミュニタリアニズム)」は「正義」の根拠を「契約」にではなく、もっと別のところに探そうとします。なぜなら、私たちは社会に「閉ざされた限界構造」を認めたくないからです。「確かに契約では“時給820円”と書いてあるわ。でも私はいつも人の倍はたらいとるよ。今月は特に忙しかったでね。それにアベノミクスで景気がよくなってきたんでしょ。だったらもうちょっと給料を上げたってちょうよ」という主張を、私たちはしたいのです。つまり市民の抱く“感情”や“やる気”というものに根拠を見出そうとするのが共同体主義の考え方です。
サンデルの「白熱教室」や「公共哲学」を読むと分かる通り、共同体主義は「共通善」の成立する世界を一つのユニットとした小国家を提唱しています。「共通善」とは、その小国家内で流通する共通の価値観のことです。つまり、私たちの“感情”や“やる気”を支えているのはその価値観であり、価値観が同じ者どうしが共同体を作れば上手くいくという考え方です。もちろん、現実的にはそのような国家を作ることは相当な困難が伴います。そのため「共同体主義は新手のユートピア思想だ」と言う人もいます。しかしこのような国家に対して、私たちが強い憧憬の念を抱くのは、決して故なきことではありません。私たちは誰でも、多かれ少なかれ「ユートピア主義者」なのです。
とは言え、現代のリベラリズム自体も、まだ決してうまく機能しているわけではありません。今の国家の形態を残したままリベラリズムの修正をしていこうとする動きも当然あります。(ロールズ自身も自説の修正を続けています)。ならば、今少し、従業員の不平不満に付き合ってもよいのかもしれません。ユートピアの夢を抱きながら、そして新しい「公平と正義」が生まれるのに期待をしながら。 |